MAG2NEWS 文責:伊勢雅臣 2017.02.14配信
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【まえがき】
日本人にとって、決して馴染み深い国とは言えないポーランド。しかし、先日掲載し多くの反響をいただいた記事「多くのポーランド人が日本に救われた。
知られざる1920年の感動秘話」でもお伝えしたように、両国間には人道を通じた絆が存在しています。
今回の無料メルマガ『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』では、さらに両国をつなぐ知られざる深い善意と友好の歴史を振り返っています。

【概要】日本・ポーランド友好小史
冬の最中にポーランドの古都クラクフに来ている。ホテルの窓から見ると、うっすらと雪化粧した街並みを見おろすように歴代ポーランド王の居城だった
ヴァヴェル城がそびえている。

ポーランドは日本からはなじみの薄い国で、一般の人はせいぜいショパンやキューリー夫人くらいしか知らないだろう。
しかし両国の間には善意と友好の歴史が100年もの間、人知らぬ地下水脈のように流れている。

弊誌142号「多くのポーランド人が日本に救われた。知られざる1920年の感動秘話」では、20世紀初頭にシベリアで困窮していた
ポーランド人孤児765名を帝国陸軍と日本赤十字社が救出し、母国ポーランドに送り届けた事。
その返礼として、75年後に阪神大震災の孤児たちがポーランドに招かれて歓待を受けた佳話を紹介した。

しかし、両国の交流はそれ以外にも脈々と続けられている。今回は両国をつなぐ深い善意と友好の歴史を辿ってみよう。

【トピック?】「日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おう」
ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアに分割され、独立を失った。その後、粘り強く独立運動が続けられたが、
彼らに勇気を与えたのが日露戦争だった。

後にポーランド独立の英雄として敬愛されるヨゼフ・ピウスツキは1904(明治37)年7月、日露戦争の最中に日本を訪れ、
明治政府に対して日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おうと呼びかた。
ポーランドがシベリア鉄道の破壊やロシア軍に徴発されているポーランド兵の脱走・投降工作をする代わりに、
日本は独立運動への支援を行う、という具体的な提案だった。

この時にもう一人の独立運動の指導者で穏健派のドモスキも来日して、ピウスツキの提案は非現実的だと日本政府に進言した。
結局、日本政府はピウスツキの提案のうち、最後のポーランド人捕虜に対する好意的な取り扱いだけを採用することにして、
松山にポーランド人捕虜のための収容所を作り、特別に厚遇した。捕虜の正確な数は判っていないが、
一説には数千人の規模に達したという。
日本海海戦で日本がバルチック艦隊を破った時には、ポーランド人捕虜全員が万歳を叫んだ。

(つづく)

コメント一覧
【トピック?−2】「日本人に出会ったら恩返しをして欲しい」
後にポーランド大使となる兵藤長雄氏は外務省入省の後、1961年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、その時の先生がグラドコフスキという
元ポーランド陸軍将校であった。グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も自宅に呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。

なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと不思議に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。父親はロシアに徴集されて日露戦争に従軍したが、
捕虜となって数ヶ月を日本で過ごしたのだった。そこで周囲の見知らぬ日本人から親切にもてなされ、深い感銘を受けた。

父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、息子にその時の話を詳しく聞かせては「お前も日本人に出会ったらできるだけ親切にして
恩返しをして欲しい」と口癖のように話していたという。
「父親が受けた日本人からの親切を、今、貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と先生は兵藤氏に語った由である。

【トピック?】「ヤポンスカ(日本)はサムライ魂を持っているんだ」
阪神大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた中心人物は、外交官スタニスワフ・フィリペック氏である。
フィリペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授だったが、ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に留学した経験もあった。

フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下のポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、氏が3歳の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に
捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。その後、氏はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。
「お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)をやりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。
ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこうにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。その小さな国が、
大きくて強いロシアと戦争をして、やっつけたんだもの。ジジュツのせいかどうかはしらないけど、
ヤポンスカはサムライの国でね、サムライ魂を持っているんだ。

小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、私たちポーランド人の希望になったんだ。わたしたちもヤポンスカのように、
ロシアや、ドイツや、オーストリアを負かして追い払い、自由をとり返して、独立できると信ずることができた。
そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーランドは独立できたんだよ。
(『日本のみなさん やさしさをありがとう』手島悠介・著/講談社)」

おばあさんは幼いフィリペック氏に、ヤポンスカがポーランド人捕虜を親切に扱ったことや、大勢のポーランド孤児をシベリアから救出したことを
語って聞かせたという。これが機縁となって、氏は日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意したのである。

(つづく)
懐かしいな。昔このメルマガよく読んでた。
ポーランドは厄介だよ。
【トピック?】「日本のヘイタイサンは、やさしかった。」
ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂起を繰り返した。そのたびに失敗しては、捕らえられた者はシベリアに
「流刑囚」として流されて、強制労働をさせられた。1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では8万人もの流刑囚がシベリア送りとなった。
その後を追って、恋人や家族がシベリアに行った。そのためにシベリアには何十万人ものポーランド人がいたのである。
そしてそこで多くの子供たちが生まれた。

1918年、ロシア革命が勃発すると、シベリアのポーランド人たちは祖国独立の一助になろうとチューマ司令官のもとに2,000名の部隊を結成し、
シベリアで反革命政権を樹立したロシア提督・コルチャークを助けて赤軍と戦った。
しかし、その試みは失敗し、ポーランド人部隊はウラジオストックに追い込まれた。

この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、日本であった。
日本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、米英仏などと共にシベリアに出兵していたのである。

赤軍は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そうとした。ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、
その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で後に日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は当時の状況をこう語っている。

「街には、飢えた子どもがあふれていましたね。その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、
「ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、せがむのです。
日本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、キャラメルをもらったことがあります。
孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている子どももいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした。
(『日本のみなさん やさしさをありがとう』手島悠介・著/講談社)」

(つづく)
バルチック艦隊と言えば伝説のUターン作戦やな
移民で無く帰国させたんだよな
そう言えば強制連行と叫びながら帰国しない民族が居るとか聞くんだが
日本人はポーランドなどの新日国と親しく親交をして行くべきで
反日三カ国(中朝韓)は無視して関わら無いべきだな
ee話だなぁ


☆カティンの森虐殺 殺して罪をなすりつけるロシア人の本性!
http://militarymatome999.web.fc2.com/kachi.html

#WW2 #ロシア #ポーランド #虐殺 #カティンの森 #British #Argentina #FalklandConflict
【トピック?】「日本に救援を頼んでは」
ポーランド人孤児たちを救おうと立ち上がったのが、鉄道技師の夫と共にウラジオストックに住んでいた
アンナ・ビエルケビッチさんだった。ボランティア組織「ポーランド孤児救済委員会」を組織し、自ら会長となった。

ビエルケビッチさんは、子供たちを救うにはどうしたら良いか、と委員会で相談をした。
一人の委員が、日本に救援を頼んでは、と提案したが、年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(はりつけ)にしたような国が、
他の国の子供たちを助けてくれるだろうか、と質問した。
そこに副会長の若い医師ヤクブケビッチ副会長が手をあげて発言を求めた。

「僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいったポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はいませんよ。
この春、ウラジオストックまで逃げてきたチューマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍じゃありませんか。
(『日本のみなさん やさしさをありがとう』手島悠介・著/講談社)」

こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、陸軍や外務省にポーランド孤児救済を依頼する。
依頼は外務省から日本赤十字に伝えられ、17日後には孤児救済が決定され、さらにその2週間後には帝国陸軍の助力で、
56名の孤児第一陣がウラジオストクから、敦賀経由で東京に到着した。
同時に救済委員会は、一人でも多くのポーランド人孤児を救おうと、あちこちの避難所を探し回った。ビルケビッチさんは語る。

こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいました。ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のようにして、
その家庭をたずねました。父親を亡くした家庭では、「せめて子どもだけでも、助け出してください。」と母親たちが、
泣いてわたしたちにたのむのでした。
(『日本のみなさん やさしさをありがとう』手島悠介・著/講談社)

しかし、こうして「シベリアで子どもたちを集められたのは、日本軍がいる町だけだった。
日本軍の助けなしには、なにもできなかった」と、ビルケビッチさんは回想する。

(つづく)